Former U.S. Secretary of Transportation Norman Mineta

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アジア系初の閣僚としてクリントン政権で商務長官、続くブッシュ政権で運輸長官を務めた日系2世のノーマン・ミネタ氏が5月3日、心臓病のため死去した。90歳。米カリフォルニア州サンノゼ出身。

 

ミネタ氏は日米開戦翌年の1942年、当時のルーズベルト大統領が発した日系人立ち退きの大統領令により、家族とワイオミング州ハートマウンテン収容所に送られた。

 

戦後はカリフォルニア大バークレー校を卒業し、陸軍の情報将校として日本や韓国で勤務。その後、地域の政治活動に携わり、サンノゼ市長を経て75年から95年まで民主党の下院議員。レーガン政権時の88年に日系人の強制収容を米政府が過ちと認め謝罪・補償した「市民の自由法」の成立に尽力した。

 

2000年に「アジア系初の閣僚」としてクリントン政権の商務長官に起用され、翌01年、共和党のブッシュ(息子)政権の運輸長官に就任し、9月11日の米中枢同時テロに遭遇。発生直後にホワイトハウス地下の緊急指令センターに入り、米上空の全ての民間機を最も近い空港に緊急着陸させる措置を決断、冷静な指示と指導力により2時間20分で無事全4638機を着陸させた。

 

故郷のサンノゼ国際空港は01年、ノーマン・ミネタ・サンノゼ国際空港に改名。06年7月に同長官を退任、同12月にブッシュ大統領から国家に貢献した米国民をたたえる「自由のメダル」を授与された。直後の本紙取材に「私は米国人であると同時に日系人であることを誇りにしている。この二つは相いれない考えではない」と語っている。

 

ブッシュ氏は3日の声明で、ミネタ氏を「困難と偏見を克服した人として、素晴らしい米国の物語を生きた」と惜しんだ。

 

 

ミネタ氏「類いまれな」ドリーム、生きた日系2世

 

筆者が米国に赴任して数カ月後の2006年12月、にこやかなノーマン・ミネタ氏と会った。同年7月に運輸長官の大任を終え、ブッシュ大統領(息子)から勲章を授与されたばかり。ブッシュ氏がたたえた「類いまれな人生」を聞いた。

 

印象に残るのは、強制収容所の生活を楽しい思い出のように回想する表情だ。

 

日米開戦の翌1942年、西海岸に居住する日系人の退去を命じた大統領令で、カリフォルニア州サンノゼの自宅を家族とたつとき、カブスカウトの制服姿のミネタ少年は野球道具を持ち出すが、「兵隊にバットを没収されたんだ。『武器になる』とね」。

 

ワイオミング州の収容所でスカウトの隊が結成され一員に。近隣地域の隊も参加する大会が開かれ、一緒にテント張りや縄結びをしたのが後の上院議員、アラン・シンプソン氏だった。

 

下院議員に当選したミネタ氏と議会で再会。米政府が強制収容を謝罪した市民の自由法案可決に「上院側から助けてくれたんだ」。奇想天外な「アメリカンドリーム」に触れた気がした。だが、1世の両親の苦労に触れたとき、厳しく悲しげな表情を見せた。

 

「父が泣いているところを3度、見ました」。最初は真珠湾攻撃の日、次が収容所に向かう汽車の中、3度目は収容所での心労と病で母が56年に死んだとき。 戦後、サンノゼの市議、市長、州選出の下院議員と政治家の階段を上る。忠実に守ろうとしたのが「まず計画を立てて進めよ」「忍耐強く誠実に仕事をせよ」との「父の口癖」だった。

 

日系人の名誉回復に政治生命を注いだミネタ氏を、自身も収容所で誕生したドリス・マツイ下院議員(77)は「偏見と不正義を米国に認めさせるため辛抱強く戦い続けた」と惜しむ。

 

米同時中枢テロ発生直後、ホワイトハウスの地下ごうから米上空の全機を緊急着陸に導いた。「1度起きたら事故、2度起きたら傾向、3度起きたら計画だ」。とっさに「前例のない判断」を下せたのは、日頃から航空行政を研究し尽くし、あとは「信頼する仲間に恵まれたから」だ。

 

ロシアのウクライナ侵攻という第二次大戦、9・11以来の事態に、祖国のために戦い、故郷を追われ、敵国との間に家族が引き離された人々に思いを寄せたはずだ。独裁者による主権と人権の蹂躙(じゅうりん)に世界はどう戦うべきかを聞きたかった。

 

筆者:渡辺浩生(産経新聞ワシントン支局長)

 

 

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